船橋と習志野の、近所のことを、少しずつ。
やさしい日本語 / Easy Japanese

行田の大きな円は、空へ伸びた無線塔の跡

地図で気づく、大きな円

船橋市行田を地図で見ると、行田団地と県立行田公園のまわりを、道路が大きな円を描くように囲んでいます。まっすぐな道や四角い街区が多い市街地の中では、少し不思議な形です。これは飾りのためにつくられた道ではありません。船橋市の公式資料によると、かつてこの場所にあった海軍無線電信所の敷地と施設配置の名残です。建物や塔がなくなっても、街を上から見た形の中に、昔の仕事場の輪郭が残っています。

中央に約200メートルの塔

無線電信所が行田に完成したのは1915年、大正4年のことでした。中央には高さ約200メートルの主塔が立ち、その周囲に高さ約60メートルの副塔が18本、円形に並んでいたと船橋市は説明しています。今の東京スカイツリーのような一本の塔を眺める姿とは違い、中心と周囲の塔を線で結び、大きな傘を広げたような設備だったそうです。現在の円形道路は、この広い無線施設が必要とした土地の形を伝えています。

当時は長い距離へ安定して電波を送ること自体が、国をつなぐ大きな技術でした。1916年には、大正天皇とアメリカのウィルソン大統領との祝電交換にも使われました。1923年の関東大震災では、被害を伝える通信にも役立ったとされています。電話やインターネットが当たり前になる前、行田は遠くの場所へ情報を届ける重要な窓口の一つでした。船橋市の紹介にある「日本の口」という表現からも、その役割の大きさがうかがえます。

戦争の記憶も残る場所

一方で、この施設は海軍の通信所でした。1941年12月2日には、真珠湾攻撃の実行を告げる暗号電文「ニイタカヤマノボレ1208」が行田から艦隊へ送信されたと、市の資料に記録されています。便利な通信技術が、人を助ける情報にも、戦争を進める命令にも使われた場所です。公園の緑や団地の暮らしを見ながらこの事実を知ると、穏やかな今の日常が、長い歴史の上にあることを考えさせられます。

戦後、施設は進駐軍の管理下に置かれ、その後返還されました。地域の目印だった無線塔は1971年、昭和46年に解体されます。塔そのものは見られませんが、行田公園には無線塔の記念碑が残されました。昔を知る人の記憶、市が保存した写真、道路の形、記念碑。別々の手がかりを重ねることで、見えなくなった大きな施設を少しずつ想像できます。

いつもの散歩で、形を読む

現地を歩くときは、円の全体を一度に見ようとしなくても大丈夫です。公園で記念碑を見たあと、曲線に沿う道路や、中心から外へ向かう道の向きを一つ確かめてみる。それだけでも、地図と足元の風景がつながります。信号や歩道の状況を見ながら、無理のない範囲を歩いてください。出かける前に地図を開き、帰宅後にもう一度見ると、自分が大きな円のどのあたりにいたのかも分かります。

街の歴史は、古い建物だけに残るわけではありません。道の曲がり方、公園の広さ、団地の配置にも、以前そこにあったものの痕跡があります。行田の円は、今の暮らしを邪魔せずに、過去の出来事を静かに伝えているようです。次に近くを通るとき、いつもの道を「なぜこの形なのだろう」と見直してみると、近所の風景が少し違って見えるかもしれません。